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ぉゔぇ記

好きなことを好きなように書きます。

「サッカーが好き」と「サッカークラブが好き」って、別のベクトルなんだよなあ、という話。

 最近、Jリーグの「クレンリネス向上」が激しい。浦和が問答無用の差別横断幕を出し、J史上初の無観客試合という処分が下されたことを機に、横断幕の内容、観客席での行動、ヤジ、客席以外での態度に至るまで、それが差別や暴力でなくても、細かく処分、注意が与えられるようになってきている。そして、10月16日、横浜FCが、とうとう次のような文章を公式ページで発表した。

横浜FCを愛するサポーターの皆さまへ

 内容は、主にJリーグが今年発表したものと同じようなものだと思う。横浜FC独自のルールなどが書いてあるわけではなかった。いずれにせよ、サッカーを楽しんでいる人々にとっては、ごく当然のことが書いてあるにすぎない。本来は必要のないもののはずだ。でも、物事にはこのようになる理由が必ず存在する。そして今回の場合、その理由は殆ど、悲しいことに最もチームを熱く応援している集団のはずの、ゴール裏にある。上のオフィシャルリリースは、横浜FCからのゴール裏席にいる人への、決別宣言のようなものだ。横浜FCはわりと顕著な例で、横浜FCを見に三ツ沢に行くとホームゴール裏には空席が多く、バックスタンドやメインスタンドには人が結構多い。他のJリーグの多くのスタジアムの場合、チケット価格もあり、両ゴール裏は埋まっているがメインやバックは空いているという事のほうが多いので、三ツ沢がサッカー専用スタジアムで横から大変見やすいということをのぞいても、他とはやや異なる状況になっていることは間違いない。そのような状況になっていることが、クラブに上のようなリリースを出させた原因であろう。

 ただし、横浜FCのようになりうる芽自体は、大小はあるがどこのJクラブでもあることだろう。もしかしたら稀有なクラブが1つか2つあって、「ウチはそんなことないよ!」というようなところもあるかもしれないが。そして、今回はその芽について考えていったことを、長くなるが書いていきたい。

※尚この先にかいてあることは、基本的に全て主観、個人的な経験から出た意見であり、コンサドーレのクラブやサポーターや何処かの団体を代表するものでも、リーグや他チームを代表するものでもない。認識の誤り等もあるとは思うが、ご容赦願いたい。

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 「サポーターは12番目の選手」というような表現を聞いたことがあると思う。どこの誰がこんなサポーター泣かせなことを最初に言い始めたのかは知らないが、ではなぜ12番目の選手と認められるのだろうか?「一緒に戦っている」と見なされているからである。熱心な人は、ホームにもアウェイにも駆けつけ、選手を鼓舞し、叱咤し、クラブに忠誠を誓い、応援している。中途半端にベンチ外の選手より試合会場に多くいることも少なくない(笑)まさに「一緒に戦っている」存在である。ただし、彼らはもどかしい気もちを抱えている。「大好きにもかかわらず、そこの選手になるスポーツの実力はない」「監督やコーチなどのスタッフになることもできない」のだから。

 そのもどかしい人たちの中で、どのチームにも「応援団」がいる。「ウルトラス」だ。(他にもクルヴァなんちゃらとかティフォージなんちゃらとか応援団名はいろいろあるが、ここではウルトラス、あるいは団体、で総称とする。彼らは日本だけでなく世界中のクラブに存在する)彼らは本当に熱心で、例えば応援歌を作ったり、応援のリードを取ったり、太鼓を叩いていたり、コレオグラフィー(人文字)を考えたり、いろいろしている。「寝ても大宮 覚めても大宮 やっぱり大宮ジャンキーさ 腹が減って金がなくても お前だけにはこの愛を」「女よりも仕事よりも東京」のようなチャントがある(愛を歌うチャントとして思い浮かんだだけでこれらのクラブがどうとかではない)が、まあ多くの「ウルトラス」はこれに近いだろう。そのような人生が正しいかどうかとかそういう話をしたいわけではない。そこまで多くのものを自分の愛するサッカークラブを応援する、ということに捧げている人たちなのである。

 自分も年に10試合位は(アウェイなのでその程度にしかならないのだが)ゴール裏のど真ん中、それこそウルトラスに限りなく近い位置で応援している(ウルトラスの構成員ではない)。なのでその気持ちもある程度は理解できているつもりなのだが、その場では「応援しているクラブ」=「自分」である。少なくともそういう気持ちで応援している。そういえば山本浩さんが、「円陣を組んで、今、散った日本代表は、私たちにとっては「彼ら」ではありません。私たちそのものです。」とジョホールバルで言っていた。まさにあの気分だ。

 そんなだから、試合で勝ったり負けたりすることは「楽しい」「嬉しい」「悔しい」「悲しい」などというような一言で言い表せる気持ちになるわけがない。「自分という人間が肯定された」「否定された」というレベルになる。少なくとも「娯楽としてサッカーを見ている」というのとは別の次元(良い悪いではなく)の感情を得ているのである。その試合から次の試合までの気持ちが試合結果によって変わってくることも多い。逆に言えばそこまでクラブに帰属意識があるからこそ、そこまでクラブの応援に熱意を捧げることが出来ているとも言える。

 一方そうではない人たちも、むしろそうではない人のほうが、スタジアムには多くいる。まずスタジアムにサッカーを見に来るのが初めてや2回め、3回めの、ほとんど観戦初心者という人達がいる。また、サッカーというスポーツが好きで、普段は他所のチームを応援している、あるいはどこのチームも特に応援していないが、今日はたまたまこの試合を見に来た、という人達もいる。もちろん、「ウルトラス」に所属はしていないが、熱心にそのチームを応援している人達もいる。自分はコンサドーレについていえば、3番目になるだろう。また、他のチームもたまに見に行くので、その際には2番目に述べた客層になる。

 そして、これらの客層(特に1番目、2番目の)と、団体の「そのクラブに対する想い」が大きく違うことはお分かりだろう。どちらが優れているとかではなく、ベクトルの向きが違うのである。前者は「サッカーというスポーツが好き、あるいは興味がある人たち」、そして後者は、「そのサッカークラブが好きな人達」である。難しいのは、「じゃあ団体の人達はサッカーじゃなくても他の何かに入れ込めばいいんじゃないの」と思うかもしれないが、「サッカーというスポーツそのものが好きだった」ことがスタートとなって入れ込んでいることがほとんどであるので、やはりそこはサッカー以外の何かではまず入れ込めないのだ。そしてこのことがきちんと理解されていないからこそ、今各クラブで事案が発生しているのだ、と自分は考える。

 先程も書いたが、団体の人達のように、勝利や敗北で自分そのものの肯定否定につながるような、そこまで一つのクラブに入れ込む事が正しいかどうか、という話をしたいわけではない。ただそのような人達がいるということを理解し、少し考えてほしい。つまり、そのような人たちにとって、「目の前にいる相手クラブ」は「サッカーでの今日の相手」ではなくなり、「不倶戴天の敵」「自分たちを否定にしに来た糞ウジ虫野郎ども」に変化する、ということが想像できるだろうか。このことが想像できれば、スタジアムで発生する問題は大体理解が出来る(と思う)。

・相手選手やサポーターに中指をたてた→「サッカーの相手じゃなくて不倶戴天の敵なんだから敵意を思いっきり向けることは有りうること」
・相手選手やレフェリーに対する暴言→「サッカーの相手ではなく不倶戴天の敵、その味方をしている(ように見える)審判に対する敵意の表現は有りうること」
・負けがこんでサポーターが居残って抗議→「自分たちの人生に近いものを何週にもわたって、よりによって糞ウジ虫野郎どもに否定され続けて、黙っていられる人が何人いるだろうか?」

確かに、「所詮サッカーだから」「娯楽だから」と考えれば、このような話になりようがない。しかし、彼らは「ただの娯楽」「所詮サッカー」と考えるには、熱意を注ぎすぎている。よってそのような発想にはなりにくい。
もちろん、理解できないかもしれないし、理解できても上記のことはやっていいことだ、ということにはならない。例えば審判は殆どの場合、中立の立場から正しく見ているのであって、ファールはファールであることがほとんどだ。そこは本来冷静に見なくてはならない。また、相手を「絶対に許されない敵」とするような考えは、あと少し進めば、フーリガン、暴力をふるうものにつながる可能性がある。それこそGoogle画像検索で「ULTRAS」などと入力してみるといい。どこの武装ゲリラかな?というような出で立ちで発煙筒を炊いていたり、武装警官と睨み合っているような海外のチームのフーリガンの画像、中にはハーケンクロイツの写っている、完全にアウトなものすら存在するはずだ。そしてそのようなものも、確かに「相手は許されざる相手」とするところから来ているのは間違いない。

 日本のウルトラスはここまで過激でも、政治的な主張があるわけでもなく、単に「チームを愛している」というために存在しており、そのような立場からきちんと話せば話が通じる人たちがほとんどなので、なんだかんだで大きな暴力事件などはほとんど発生しないまま、女性や子供も見に来れるリーグが現状はできあがっているわけだが、野放図にしておけばその環境がなくなってしまう可能性もゼロとはいえない。自分はそのような暴力的なリーグ、応援団が出来上がることには断固反対する。


 ただし同時に、相手が心底憎いと思えるほどのクラブへの帰属意識、相手への敵意があるからこそ、応援が盛り上がっている部分も存在するのだ、ということも理解されるべきだろうとは思う。
 これは単純に自分の話なのだが、自分はサッカーそのものが好きで、コンサドーレではない、他のチーム同士の試合を現地や、テレビで見ることもよくある。この時に自分は選手の動きを見て、良いプレーにはどちらのチームにも拍手を送るよう心がけている。またどちらのチームが勝とうとも、現地では最後に必ず拍手をするようにしている。自分で言うのもなんだが、先程の横浜FCのリリース、あるいはJリーグの求めている、双方をリスペクトした「健全な楽しみ方」をしていると言えよう。サッカーそのものを競技として楽しんでいる。しかし、そこにはほとばしる感情はほぼない。「あーいいサッカーしてるなあ」「素晴らしいなあ」「すごいなあ」「ダメだなあ」などと感じることはよくある。しかし居るだけで思わず飛び跳ねるような、心が湧き上がるような、土足で踏みにじられるような屈辱を感じる、試合はほとんどない。

 しかし、これが日本代表のちゃんとした大会の試合では、例えテレビで見ていても、先ほどの自分とは関係ない両チームと同じようにはならない。純粋にサッカーそのものを楽しんでいるわけではない。相手のラフプレーに声を荒げるし、ピンチの時は相手にブーイングをするし、当然ながら相手にこんちくしょう、などとは思う。チャンスならば「ニッポン!ニッポン!」と騒ぐし、ゴールが決まればチャントを歌って大騒ぎすることもある。そこに客観的な視点、冷静さはずいぶん欠けている。気持ちが動く。腹も立つ。

 これがコンサドーレの試合になれば、より一層その度合は増す。相手が接触すれば、仮にコンサドーレの選手が悪くても「おい!ふざけんな!」となるし、相手の選手、サポーター、そのすべてに腹が立つ。何もしてなくてもだ。消え失せろ、と思う。相手がミスしたら嬉しくなる。正々堂々と?そんなもの糞食らえだ。相手が力を半分しか出せなければ簡単に勝てるだろう。相手選手に野次を飛ばすこともある。振り返ってみても、中指こそ立てないものの明らかにリスペクトは欠いている。
 コンサの選手たちが躍動すればそれだけでも心が躍るし、我々のチャントを選手に届かせよう、彼らを動かそうと声を張り上げる。ゴールは嬉しいなんてものではない。そこに冷静さはほぼ無いと言って良い。しかし、常に感情がほとばしっている。色んな感情が。そこに楽しさ、充実感を感じるのだ。応援だけ、相手の否定だけ、そういうものではない。両方が1つのものになっている。それがセットになっているのが「応援する楽しさ」だ。
 もちろん、勝ち負けや見ているものによって大きく気持ちが動くのだから、サッカーそのものは重要だ。残念ながらバレーボールでは自分はそうならないだろう。しかし、サッカーが問題なのではないのだ。コンサドーレのサッカーであること、それが感情のほとばしる動きにつながる。これはレアル・マドリーでも、バルサでも、バイエルンでも、チェルシーでも、マンUでも浦和でもガンバでも東京でも、自分は無理なのだ。

 サッカーが見るスポーツとしても世界中に広がったのは、双方のチームをリスペクトして「どちらも素晴らしいゲームだったねえ」という競技性の楽しみだけを売り物にしてきたからだったのか?確かに競技としてもサッカーは面白いスポーツだ。だけど自分にとってのコンサドーレのような、確かに相手にはリスペクトを欠いている場面もあるが、気持ちがギュンギュンめぐる、その楽しさが各々にあるから、広まってきたのではないのか。

 暴力、人種差別は論外だ。試合会場以外でもあからさまに敵意をむき出しにする人間も、どうかと思う。しかし試合中の敵に対してすら、憎き敵のように扱えないというのであれば、それは本来の楽しみの一部を削ってしまっているのではないのかな?とは思う。それとも、そういう楽しみそのものが否定されてしまい、「競技そのものを楽しみなさい」ということなのだろうか。