ぉゔぇ記

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永遠のヤングガン

  岡本賢明が引退するということだ。

 

 コンサドーレサポーターがはじめて彼の名前を聞いたのは2006年の11月のことだったと思う。熊本のルーテル学院高校から、すごく才能のある選手が来年入ってくるらしい、と。彼のプレースタイルを、強化部長は次のように語ったー山瀬功治2世』

 当時のサポーターにとって、山瀬功治今野泰幸というのは、他チームにいるもののやはりスペシャルな存在であった。その後を継ぐ者、というお触れ書きは、相当な期待感をサポーターに与えた。

 しかし翌2007年、コンサドーレの監督は三浦俊也だった。前年、大宮サポーターが2ちゃんねるに書き込んだ「三浦俊也取扱説明書」には次のようにある。

「Q、若手を全然起用しないのですが? A、仕様です」

 そういうわけで、鳴り物入りで加入した岡本の出番は開幕から暫くの間なかった。チームの調子も非常に良かったこともあり、わざわざ高卒1年目のアタッカーを使う必要性も特になく、ベンチ入りもままならない日々が続いた。山瀬2世は本当に山瀬2世なのか、我々には知る由もなかった。

 彼が日の目を見たのは、10月も下旬に差し掛かってからのことだった。2007年10月20日J2第46節、博多の森でのアビスパ福岡戦。前半早々に不動の右サイドハーフ藤田征也が負傷交代。ここで三浦俊也は岡本を投入した。

 彼は凄まじかった。投入されて10分も経たないうちに砂川のクロスをGKの目の前でヘディングで触ってJリーグ初ゴールを奪うと、石井謙伍が退場して一人少なくなった札幌の攻撃を牽引。ピッチを縦横無尽に走り回る運動量、クイックネス抜群のドリブル、トリッキーなパス、積極的なシュート。三浦俊也も驚いたのだろう。ここから最終節まで、それまでほとんど出番のなかった岡本は全試合でベンチ入り、出場を果たしている。

 いつだって、クラブの未来を担うであろう若手はサポーターのお気に入りだ。岡本も例外ではなかった。プレーはもちろんのこと、明るいキャラクター、ハスキーな声、そして時たま見せる、20歳になっていない若者とは思えない真剣な眼差し。『札幌には藤田、岡本、西大伍がいる』そんな声も聞かれた。そして彼は山瀬2世ではなく、岡本賢明というヒーローになった。

 第50節札幌ドームでの京都戦、3万3000人の観客の前で0-1のビハインド。後半開始から流れを変えるべく投入された岡本は、積極的なシュートやドリブルで流れを引き寄せると、73分に石井のスルーパスを左足でダイレクトシュート、ゴールを奪う。コーナーフラッグのところでジャンプして両手を広げて吠えた岡本と、怒涛のような観客の歓声。この試合を一時逆転にまで導いたのは、間違いなく岡本賢明の作った空気だった。

 翌年J1では目立った活躍はできなかったものの、2009年に石崎信弘が監督に就任すると、信頼を勝ち取り攻撃のアクセントになる活躍をした。チームの中心を担うかに思われたものの、9月に右膝の半月板と靭帯を損傷。負傷から回復した翌2010年も、またそれなりの成果はあげたのだが、10月に再び右膝を損傷。ここから2013年に札幌を退団するまで、彼の右膝は常に彼の足かせとなっていた。そんなところまで山瀬に似なくてもいいのに。

 2012年には選手会長に就任し、2013年は財前恵一監督のもとでユース選手を大量昇格させ、大幅に若返りした札幌の攻撃を見事に牽引し活躍するが、彼の膝は限界に近かった。辞める前に地元で活躍したい、シーズン終了後にそう言って退団する彼は、移籍していく選手にしては珍しく、コンサドーレサポーターに熱烈に応援されて去っていった。

 

 岡本が札幌で出場する度に、2007年、彼にとってのルーキーイヤーの空気が戻ってきた。ヤスなら流れを変えてくれる。ドリブルで仕掛けてくれる。相手を惑わせ、観客を魅了してくれる。それは素晴らしいことでもあったと同時に、ルーキーイヤーを越える程のインパクトをその後に与えることができなかったのもまた事実なんだろうと思う。右膝の怪我がなかったのなら、もっと上に行けたのかもしれない。でも、我々はそれで十分幸せだったし、それでよかったのだ。いつまでも19歳の空気を纏っている彼が、みんな大好きだったから。