ぉゔぇ記

好きなことを好きなように書きます。

自らサイクルを回せる喜びを。

 この記事は北海道コンサドーレ札幌Advent Calendar201712月14日分の記事です。毎日様々なブログ記事が更新されていき、面白いので、ぜひ他の日の記事も御覧くださいね。

 さて、アドベントカレンダーに登録したはいいものの、こんな幸せなシーズンの終わりに何を書けばいいのか本当にわからない。最初はエモいの書こうかと思ったんだけどキャラじゃない。そしてコンサドーレの決定力の高さについて書こうかとも思ったんだけど、別の方が書いちゃったんで、本当に困った。絶対俺のよりちゃんとしてるし、このデータ解析した人のブログ。というわけで、なんかよくわからんけど適当にエッセイにします。

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 今年のチームを取り巻く空気感が好きだった。一体感をもって、というのはかなり前からコンサドーレのサポーターが目指してきたことのひとつだと理解しているけれども、今年はそれが体現できたように思えた。「J1に残留する」という確固たる目標があって、そのことを選手も、スタッフも、クラブの運営の人達も、スポンサーも、サポーターも、マスコミも、もっと言えばコンサドーレにそれほど興味がない道民の人たちも、たぶん理解していた。だから、多少負けが込んでも心が折れることはなかったし、J1で勝ち点を積むことの価値をみんなが知っていたから、1つの勝ちを大きく喜べた。

 

 なぜ「残留」という目標を共有できたかと言えば、それ以前の不幸な歴史もみんなが共有していたからだ。3度のJ1最下位での降格。「頑張って昇格→ボコボコにされて自信も戦力も金も失っての降格→前回昇格時よりも予算や選手がいない状態での再スタート」これがここ15年くらいのコンサドーレの通ってきた道だった。監督や選手も、「変わる」のではなくて「変えざるを得ない」というサイクル。なんとかして、この流れを食い止めなければならない。上がっても1年ですぐ落ちるようなチームではこの流れを替えることは出来ない。不幸な歴史の共有が、今年の一体感の醸成に一役買ったとすれば、あの賽の河原の石積みも無駄ではなかったのだろうか。

 

 どんなチームにもサイクルというものが存在する。今年のJリーグだと、ガンバや広島はサイクルの終焉というものが分かりやすかった。どちらも数年前にはタイトルを獲得した強豪。でも、強い時期は終わり、広島は今年ほぼずっと降格圏での戦いを強いられたし、ガンバは後半戦は2勝しかできなかった。プロスポーツの世界で花開ける事自体が貴重で素晴らしいことなのだけれど、その花開いたチームを仮にそのまま維持したとしても、選手は毎年1歳ずつ年をとる。だから同じチームは二度と存在しないし、強さを維持するのは本当に難しい。

 

 じゃあコンサドーレのサイクルはどうなんだろう。上がり目なのは確かかもしれない。J2優勝→J1で16年ぶりの残留なのだから。でもその上がり目のピークがもっと先にあったのかもしれないし、もしかすると今年だったかもしれない。これは後になってみないとわからないことだ。四方田さんが監督になって2年半が過ぎた。前述の長谷川監督がガンバで3冠を獲得したのは就任2年目。森保監督が広島でタイトルを取ったのは1年目2年目と4年目。ネルシーニョ監督が神戸で最も強かったのも、2年目のセカンドステージ(全体の2位)だった。今挙げた監督たちは、みんなJ1でタイトルを取った名将たちだ。当然クラブ側も契約を延長し、そして彼らはそのクラブでのサイクルの終りを迎え、皆最終的にクラブを追い出されることになった。

 

 コンサドーレは、良い流れで自ら監督を変えた。それが成功するのか、それとも失敗に終わるのかは後になってみないとわからない。でも、成績不振で四方田監督を交代させるというサイクルの終わらせ方ではなく、チームをより成長させるために、前向きにサイクルを終わらせることが出来たことは間違いないし、そのようなことが出来るチームもそう多くはない。「変えざるを得ない」から「変わっていく」クラブへの成長を喜ばしく捉えたい。次に皆で一体感が持てる目標は、きっとすぐに見えてくるはずだ。

2017年11月18日

何も書いておかないと大事な日を忘れる気がしたので。

2002年11月30日。曽田さんが延長Vゴールで広島を倒してから約15年。

2004年11月23日。J2最下位になってから約13年。

2006年12月29日。天皇杯の準決勝でガンバに負けてアクションサッカーが終わってから約10年と10ヶ月半。

2008年10月19日。厚別で柏に負けて1年での降格が決まってから約9年と1ヶ月。

2012年9月29日。7試合を残しての史上最速降格が決まってから約5年と2ヶ月。

2015年7月24日。バルバリッチが解任されてから約2年と4ヶ月。

 

どん底まで落ちて、這い上がって、また蹴落とされて。

輪廻の輪をぐるぐるぐるぐる回っているような日々でを過ごしてきたんだよね。

忘れられない喜びもいっぱいあったけど、どこかに満たされない部分とか、落ち着かない気持ちもあったわけで。

 

 

日本平は雨が降ってて肌寒くて。後半も半ばまで来て、負ける気は微塵もしなかったけど、早く終われ、早く終われって、3分毎くらいに時間が気になって。

バスに乗って、席について暖かくなって、なんかホッとして、よかったなって思ったら涙がボロボロって出てきて、で、ビール飲んだら疲れがどっと出てきて、帰りのバスは半分以上寝ていた気がする。

 

去年のJ1昇格の後の選手やサポーターの顔は、興奮が先に立っていた。大泣きして、大笑いして。昨日見た選手の顔は、みんな穏やかだった。ノノも本当にいい笑顔だった。こっち向いてるカメラマンも笑顔だった。いっぱい詰めかけたサポーターも穏やかな笑顔だった。

 

コンサドーレはあんなにいっぱいの人が穏やかに笑えることを成し遂げたんだよね。そのことが、単純な成績のことより嬉しいよ。これからもそういうクラブでいたいね。

永遠のヤングガン

  岡本賢明が引退するということだ。

 

 コンサドーレサポーターがはじめて彼の名前を聞いたのは2006年の11月のことだったと思う。熊本のルーテル学院高校から、すごく才能のある選手が来年入ってくるらしい、と。彼のプレースタイルを、強化部長は次のように語ったー山瀬功治2世』

 当時のサポーターにとって、山瀬功治今野泰幸というのは、他チームにいるもののやはりスペシャルな存在であった。その後を継ぐ者、というお触れ書きは、相当な期待感をサポーターに与えた。

 しかし翌2007年、コンサドーレの監督は三浦俊也だった。前年、大宮サポーターが2ちゃんねるに書き込んだ「三浦俊也取扱説明書」には次のようにある。

「Q、若手を全然起用しないのですが? A、仕様です」

 そういうわけで、鳴り物入りで加入した岡本の出番は開幕から暫くの間なかった。チームの調子も非常に良かったこともあり、わざわざ高卒1年目のアタッカーを使う必要性も特になく、ベンチ入りもままならない日々が続いた。山瀬2世は本当に山瀬2世なのか、我々には知る由もなかった。

 彼が日の目を見たのは、10月も下旬に差し掛かってからのことだった。2007年10月20日J2第46節、博多の森でのアビスパ福岡戦。前半早々に不動の右サイドハーフ藤田征也が負傷交代。ここで三浦俊也は岡本を投入した。

 彼は凄まじかった。投入されて10分も経たないうちに砂川のクロスをGKの目の前でヘディングで触ってJリーグ初ゴールを奪うと、石井謙伍が退場して一人少なくなった札幌の攻撃を牽引。ピッチを縦横無尽に走り回る運動量、クイックネス抜群のドリブル、トリッキーなパス、積極的なシュート。三浦俊也も驚いたのだろう。ここから最終節まで、それまでほとんど出番のなかった岡本は全試合でベンチ入り、出場を果たしている。

 いつだって、クラブの未来を担うであろう若手はサポーターのお気に入りだ。岡本も例外ではなかった。プレーはもちろんのこと、明るいキャラクター、ハスキーな声、そして時たま見せる、20歳になっていない若者とは思えない真剣な眼差し。『札幌には藤田、岡本、西大伍がいる』そんな声も聞かれた。そして彼は山瀬2世ではなく、岡本賢明というヒーローになった。

 第50節札幌ドームでの京都戦、3万3000人の観客の前で0-1のビハインド。後半開始から流れを変えるべく投入された岡本は、積極的なシュートやドリブルで流れを引き寄せると、73分に石井のスルーパスを左足でダイレクトシュート、ゴールを奪う。コーナーフラッグのところでジャンプして両手を広げて吠えた岡本と、怒涛のような観客の歓声。この試合を一時逆転にまで導いたのは、間違いなく岡本賢明の作った空気だった。

 翌年J1では目立った活躍はできなかったものの、2009年に石崎信弘が監督に就任すると、信頼を勝ち取り攻撃のアクセントになる活躍をした。チームの中心を担うかに思われたものの、9月に右膝の半月板と靭帯を損傷。負傷から回復した翌2010年も、またそれなりの成果はあげたのだが、10月に再び右膝を損傷。ここから2013年に札幌を退団するまで、彼の右膝は常に彼の足かせとなっていた。そんなところまで山瀬に似なくてもいいのに。

 2012年には選手会長に就任し、2013年は財前恵一監督のもとでユース選手を大量昇格させ、大幅に若返りした札幌の攻撃を見事に牽引し活躍するが、彼の膝は限界に近かった。辞める前に地元で活躍したい、シーズン終了後にそう言って退団する彼は、移籍していく選手にしては珍しく、コンサドーレサポーターに熱烈に応援されて去っていった。

 

 岡本が札幌で出場する度に、2007年、彼にとってのルーキーイヤーの空気が戻ってきた。ヤスなら流れを変えてくれる。ドリブルで仕掛けてくれる。相手を惑わせ、観客を魅了してくれる。それは素晴らしいことでもあったと同時に、ルーキーイヤーを越える程のインパクトをその後に与えることができなかったのもまた事実なんだろうと思う。右膝の怪我がなかったのなら、もっと上に行けたのかもしれない。でも、我々はそれで十分幸せだったし、それでよかったのだ。いつまでも19歳の空気を纏っている彼が、みんな大好きだったから。